【ドス黒い嫉妬が原動力だった日がある】(2/5)
先日、話をする機会があって、それを思い出して書く。
「なんのために頑張るんだろう」
「頑張る意味って何?」
ふとした瞬間にこういうのが出てくる瞬間は誰しもあるだろう。
僕だってこうやって一応2週間以上に(それなりに)ストイックにやって実際結果は出しているけれど、「じゃあ何のために?」とか考えないわけではない。
実際のところぼんやりとした問いに対しての「答え」というのは漠然とは持っているのだけれど、それだけが原動力になっているかというとそうではない。
大前提には「尊敬する人」の顔が浮かぶ。
そいつはとってもカッコ良かった。めちゃくちゃに弱いはずなのに、めちゃくちゃにしんどい思いもしてきてるはずなのに「幸せになりたい」という強い一心で全てを壊してでも一生懸命に生きている人だった。少なくともそうでなかったとしても、僕にはそう見えてそこに強い憧れを抱いた。
以前の僕は表題にもある通り、もう正直特に夢も希望もなく、抱えたデメリットや負債も全部背負ってサクッとぼんやりと死ぬことばかり考えていた。
言い方を変えれば「幸せ」なんてものに興味がなかった。
「本当にそれで幸せなの?」と言われた日を思い出す。
ハッとしたのだ。確かに僕はそれなりに幸せでその幸せに満足しようとしていた。何故ならば「幸せはいつも自分の心が決める」という部分があったからだ。
「幸せではない」と自己覚知することを避け続けてきた。
元々、途方も無いほどのコンプレックスの塊だからそんな事を真っ向に考えることを避け、割と刹那的に生きることに美徳さえ感じていた。
そこから僕の「ロスタイム」が始まった。
いや始まったというよりは勝手に時計が進んでいたような感覚さえある。
とにかく「やんなきゃなぁ」の繰り返し。自発性のあるものもあったが、根本的な部分は全て先送りにしてきていたし、その中でコンプレックスを歪めてドス黒い嫉妬へ変わらせては爆発させての繰り返しだった。当たり前のことである。
それまではコンプレックスを「見ない」という選択で受容してきていたのに、それと正面からではないにしろ「ぼんやり」と向かい合う事になったのだから。
そりゃあ他者を妬みも嫉みもする。正当化するつもりもないが、実際そうなる。
「ないものねだり」ですらない「ないもの妬み」までしていた。
しかしそのドス黒い嫉妬はある意味で原動力にもなっていた。
とはいえど、コンプレックスそのものと向き合う勇気なんざ僕には足りてなくて、結局のところ空回りのようになっていた自覚もある。そりゃあそうだ。元より根本的な解決に至ってないのだから、ねじれにねじれてしまうのは当然の報いでもある。
じゃあ今なぜこうやってそれなりに続いているのだろうとなる。
正直に言ってしんどいことも多いのに、それでも何故続くのか。
シンプルにそういう自分に飽きたのかもしれない。
飽きただなんてPOPに書いているが、もっとハッキリ言う。
多分、マジでそういうのが「嫌」になったのだ。
尊敬していたあの人ほどの、色んな大前提の「幸せになりたい」ほどの。
強い原動力ではないとは思うが、まぁそれなりに。
あの時感じて、身を焦がしてきたドス黒い嫉妬が、きっとある意味で今でも原動力になっているのだろう。そういうもんなのである。そういうもんだ、きっと。