30までに死ぬ宣言からのロスタイム

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色々と諦めてた人が呆れられたくなくて諦めなくなったお話

【信じるというのは愛や優しさに似ている】(1/29)

今日の主題は「信じること」である。

 

 先日Twitterを見ていて(いつも見てるのだけれど)
とても感動するものがあった。
泣くとかそういうのではなく「なるほど」となる内容だった。

 

 

 

 これは元々、2020年9月。主演映画「星の子」の完成報告イベントで「信じる」ことについて聞かれた芦田愛菜さんのコメントだ。

 元々インタビュー用に用意していたコメントというよりは彼女の生の声だろう。おおよそ1分ほどの内容であるが、実に凄いものだった。筋道立てて説明しているという部分(言語表現力)もさることながら、内容もどこかグサリとくるものだった。


以下はインタビューの内容を文字起こししたものである。

『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて。

だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど。


でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました。

 

読めば普通に分かる内容だと思うが、
ざっくり簡潔にまとめてしまうと

 

「信じるということ」≒自分の理想や期待

→「裏切られた」や「期待していたのに」という負の感情が発生。これを防ぐためには「それもその人なんだ(欠点部分)」を受け止められる「揺るがない自分」が必要。

→「その揺るがない自分(軸)」≒「信じられること(幅)」

→「信じる」と口に出すことでその不安定な軸(自分)を補助する

 

つまり一言に「信じる」と言っても「自分が信じる」ことと「相手を信じる」という2つの要素が存在している。多分、そこについて意識しない限り自覚するのは難しい。

 

ここからは少し話をステップアップしていく。

 

「裏切られた」とか「幻滅した」とかそういうのがあった時に、
「この人はこういう人だ」ではなく「この人もこういう「時(≒面)」がある」と定義した方がおそらくマインドセットとしては気楽に生きられるだろう。

(因みに上の色は怒りベクトルと悲しみのベクトルをイメージして欲しい)

 

もちろん、それは自分自身においても有効だ。

「自分を信じることが出来ない」という場合の話である。
逆説的に言えば「自分を信じたい」という場合の事である。

 

無意識的に人間は「相手」だけでなく「自分」に対しても理想像や期待を抱いている。「そんなことはないよ~~」と言っときながらも何だかんだで理想像や期待というものは絶対に持っているものであり、それに対して凹むことは幾度となくある。

 

「もうちょっと出来るはずだったんだけどな」とか

「もうちょっと信じられるはずだったんだけどな」とか。

所詮は人間だ。機械的には生きることは出来ない。
だから「そういう時」も往々にあるのだ。
しかし今、この瞬間が終われば全て「過去」である。
水に流してしまえとは言わないが、人間は機械ではない。
衰えもすれば、成長もする。

だからこそ「氏」の言ったように「信じる」べきだ。
変化を信じなければいけない。「自分」のである。
出来ることなら相手の変化も信じた方がいいが、
それは容易なことではない。

 

もう少しだけ話を変える。

「相手を信じられなくなる」というケースについてだ。

信じることの真逆なので、これも2つの要素があるだろう。

 

① 相手を信じられなくなる

② 自分が信じられなくなる


これの線引もきっと非常に難しくて「もう信じられない!」というのは「自分が信じることができない」のか「相手を信じることができない」のかで違う。
相手自身を見てるのか、自分自身のイメージ像の方なのかで「何を信じているのか」という部分も含めて異なる。


人は成長するものである。

先日のエントリとも重なってくる部分であるが、
「出来る」とか「信じる」ということはポジティブであった方が良い。

urpotato.hateblo.jp

 

そういう意味で「信じる」というのは多分きっと。
「優しさ」や「愛」と似ている。

だからこそ相手に「信じてもらう」ためには、
自分を愛し、自分を研鑽していかなければいけない。
少しでも相手の理想像に近づけるように。
少しでも相手の理想像から外れないように。

そして僕らは「信じられる幅」を増やさないといけないのだろう。
自分も愛して、自分も信じてみましょうよ。

 

話は変わるんですが、グレンラガンという
アニメは実にいいアニメで。名言の嵐です。
その中でも珠玉の名言があるんですね。

いいかシモン、自分を信じるな。お前を信じる俺を信じろ!

 

いいかシモン、自分を信じるな。お前を信じる俺を信じろ!

 

微妙にニュアンスは違いますがどちらにせよ、です。
他者から肯定と自分からの肯定。これもまた大事です。

 

期待されるのもしんどいし、理想像の押し付けもしんどいですよね。
でも優しくされたいし、愛されたいじゃないですか多分。
「嫌われたい」と思って生きる人間なんかそうそういません。
「信じてもらいたい」って思うのはみんな当然です。


だからね、信じるというのは愛や優しさと似てますよね、きっと。
育てていくものだと思います。